OHYAMA
KANKOUKYOUKAI

 


きうりを食いに上ったカッパ

 善名の長栄寺の本家といわれる上瀬戸の田中家に起った事件ですから、長栄寺のはじめられた文禄元年以前のことと思われます。

 7月下旬のまだきびしいある日のこと、あるじの喜右衛門が山仕事から帰ってくると、家のせんざい畑のあたりに、何かおかしなものが、もそもそ動いています。
 よくよく見るとさるのようだが、さるではない。頭の上にくぼみがあって、髪は赤い松葉のようで、ぼさぼさしている。さてはカッパかというので、みつめていると、しきりに畠のきうりをちぎっては食い、ちぎっては食っている。

 喜右衛門はこれを見てかっと怒りました。腰のかまをぬいで「ちえっ、この畠のきうりがちょいちょいなくなるのはき、き、きさまだな。」とどなったかと思うと、たちまちばっさり、カッパの手を切り落してしまいました。
 カッパはしおしおと泣きだして、
「キューキュー、どうか命だけはお助けください。これからは、こんなことはもうとういたしませんから。命だけはどうかお助けください・・・。」 と哀願する。喜右衛門もちょっとかわいそうになって、
「お前を殺してみたところで、たいして手柄になるわけでもなし、そんなら、かんにんしてこませるから、ちゃっちゃっとわび証文を書け。」 すると、カッパ川太郎は、
「はいはい、お助けくださるとはありがたいことでございます。しかし、もともとわたくしは無筆で、ものを書くことも知りませんし、手をちょん切られたんで、いよいよもって書くこともできませんちゃ。お慈悲ついでに、どうかその手もお返しくださるまいか。持って帰って、ちょっと薬でつぎますので。」
 あるじもなるほどと思った。手を切り落としておいて、わび証文を書けとは、りくつに会わん話です。
「ふうむ。そうかい。そんならその薬は、お前が調合するのかい。」
「はいはい、私が調合するのですちゃ。」
「そんなら手を返してこませる。そのかわり、おるのこの面疔のなおる薬をすぐさま調合し、ついでに処方箋も伝授せいやい。」
「命のかわりだけに、おやすいこっですわい。承知しました。」
 というわけで、カッパ川太郎は、あるじに処方箋を口授し、それを作るベッコウ色の石もくれて、もとの住み家にいそいそと帰っていきました。

これはもちろん伝説でしょう。しかし、このあと下瀬戸に移った田中家の家伝の名薬「面疔の薬」は、たちまち有名となって、明治ごろには、下新川や砺波の方からも「疔屋はどこか。」と尋ねて来るほどでした。

 

 


小武羅兵衛(こぶらへい)

 小佐波谷の東俣に「こうら」(小浦)の地名があります。延宝のころ(1673)、この村に生まれた「小武羅兵衛」は全く怪力無双、当代まれな人でした。
 ある時、小佐波から富山まで、まき百束をかついで売りに出ました。堀川の関門があまり低かったため、まきにひっかかったのを知らずに、そのままかついで、太田口の柴売角にいき、ここで柴を売ったそうです。また、ほかの日でしょうが、とても長いのをかついだため、柴売角までやっと通っていき、そのあとは両側の軒がつかえてはいれず、ここで売ったこともありました。この話には、途中の両側の軒を全部ひっかけて来たともいわれています。
 ある時は、富山で買った五斗俵(75キログラム)を杖の先に結わいつけて、その杖を平気でついて帰ったこともありました。
 福沢の大福寺の石垣は、形の変わった大石ではどってあります。これは、コブラと、日尾村の大力某の二人が、夜業に黒川からかついで来て、一晩のうちに作ったんだそうです。

 

小武羅と殿様

 富山二代藩主、前田大蔵大輔正甫公は、売薬の殿様として、城址公園に銅像になっておられるお方です。その母である泰樹院八尾様は、八尾町の笹原屋彦治という町人の娘でした。身長は五尺八寸、体重二十四貫といわれます。ある時、二頭の猛牛のけんかをはしごでおしのけて、やめさせたくらいでした。正保三年の秋のこと、たんぼ道を山のように稲をかついで通っていたところを、富山初代の利次公のお目にとまり、ぜひというので奥方に召し出されたお方でした。
 だから、正甫公もたいそうの偉丈夫で、学問とともに武勇をお好みになりました。
 お城の横には神通川が流れています。藩では多くの水練に達したものを召し抱えてあります。毎年夏になると、この川で水泳ぎのけいこをなさるのが慣例でした。
 ある年の夏です。殿様は百貫目をも肩にする小武羅のことをお聞きになって「ぜひ召しよせろ」というので、お呼び出しになりました。とうとう神通川舟橋の上手で、おおぜいの若侍たちとともに、水練のけいことなりました。それは、六尺の戸板を横にして、水を押し切り、川上に上る競争をするのです。
 このとき殿様正甫公は、見る見る小武羅の二、三間も先に泳ぎ上られたのでした。おつきの家来たちも舌を巻いて、その怪力に感服したといわれます。しかし、本当のところ、郷内切っての小武羅の実力は、はたしてどうであったのかは、だれも知るものはありませんでした。
 一人で何人前でも仕事をする小武羅の力には、いつか畏怖の念をもつ山人が多くなりました。とうとうしまいに、しめし合わせて、加賀沢(細入村蟹寺の奥)の木呂伐り場で殺してしまいました。始めの間は、山上のおおぜいのきこりらが、大木を一本づつ、下にいるコブラに投げ下していましたので、小武羅はそうも知らず要領よくこれを受けては横積みにしていました。やがてだいぶ疲れてきたところを見すまして、山のようになっている木呂を、いちどにどっと落としたのです。そのために、さすがのコブラも逃げる間もなく下敷きにされ、最期をとげたといわれます。

 小浦から少しばかりはいった東谷のコブラ石(足跡)は、巻頭にも述べましたが、このほかにも「コブラのくわの跡」という大石も道村にあります。
 コブラに一人の妹がありました。この人も巴御前のような怪力でした。七、八十才となって、腰が曲がっていたときでも、積み上げた五斗俵の山から、自由に一俵を抜き取っては、また元のところに押しこんだり、子もりをしながら、一俵を片手にぶらさげてくることなどは平気でした。いつも一山のまきをこわきに抱えて、いろりに入れましたが、こんなことは何でもないことでした。