1876年(明治9)〜1958年(昭和33)旧大山町文珠寺に生まれ、12歳で大岩山日石寺に入門。高野山大学に2度学ぶ。29歳で同大学教授となり、1940年(昭和15)学長。大学の独立を守る。真言宗の理論を極め修行でも並ぶものがなく、高野山真言宗管長、金剛峯寺座主に1953年(昭和28)に就く。

 

 「天徳院の院家(住職)さん、こんな寒い日にきょうもお詣りですか。ご苦労さんなことですね。」
「はい。お祖師さま(弘法大師)のお詣りは、どんなに寒くても欠かすことはできません。」
 奥の院の途中で出会った人が、毎日欠かさずに通う穆韶に声をかけた。今朝の寒さはとりわけ厳しかったからである。海抜1,000メートルの高野山は平地より2度ほど気温が低く、冬の寒さは氷点下6、7度になることは度々あって、北陸富山の比ではなかった。高野山奥の院には、真言宗の開祖弘法大師をおまつりした祖廟(みたまをまつったところ)がある。天徳院の院家金山穆韶は、1913年(大正2)から1933年(昭和8)までの年間、38歳から59歳まで、風雨の日も雪の日も一日としてお詣りを欠かしたことがなかった。
 穆韶が祖廟に通うのは、開祖弘法大師の御霊にお詣りして、真言宗の教えを心身ともに体得して大師の心に近づきたかったからである。そして仏教の繁栄や人々に仏の御加護があることも祈った。
 穆韶は、天徳院院家としてまた、高野大学教授として真言宗密教学を研究する学者として、多忙な日々の貴重な時間をさいて、祖廟のお詣りを続けたのは、祖師弘法大師への並々ならぬ信仰と強い意志があったからである。
 穆韶は、あらゆる修行を通して弘法大師の境地に近づきたいと努力した。1924年(大正13年)夏、徳島県大龍寺で「求問持法」という修行に入った。弘法大師も大龍寺でこの修行をして仏の世界に心が達したといわれる。行は7月12日から猛暑のなか50日間続けられた。お堂にこもったきりで毎朝2時に起きて「虚空蔵菩薩」という仏様の名前を百万遍も称えつづけて、教えの真意を悟のであった。
 万願(行を成しとげる)の日は8月30日で、無事この行を終えることができた。また、「八千枚護摩法」という修行も生涯に3回積んだ。この修行は21日間毎日3回づつ不動明王の前で火をたいてお祈りする儀式である。そして、その後に7日間の断食と護摩が加わる難行中の難行である。金山穆韶はこのような厳しい修行を積み重ねながら、一方では学間の道でも秀れた研究に取り組んでいた。修行と学問の二つの道は車の両輪のように、あるいは鳥の二つの翼のように兼ね備えた僧としての努力をしていた。

 

 中学校を卒業した穆韶は、運悪く病気になって3年間も療養生活を続けた。やっと元気な身体に回復したので、念願の高野山大学に入学することになった。病後の身体を心配した文珠寺の年老いた父親は、荷車に穆韶を乗せて小杉町まで送ってくれた。
 そのころ、鉄道はまだ富山に来ていないので途中一泊して福井まで行って乗車した。大学生活は穆韶にとって楽しいもので、砂に水がしみこむように学間を吸収していった。またたくまに四年間の日が過ぎて1901年(明治34)、大学を卒えて大岩山日石寺に帰ってきた。
 帰郷したものの、真言宗の根本原理を究めたいという欲求が日に日に高まり、再び大学での研究生活に入りたいという思いが強まった。しかし、日石寺の後輩の弟子が二人も高野山へ行くことになっており、穆韶が再度行くことはできなかった。
 幸い郷里文珠寺の父は、穆韶の気持ちをくんで乏しい家計をさいて学資を出してくれることになった。穆韶は貧苦と困難を覚悟の上で再び高野山に登った。
 うきことのなおこの上につもれかし
   かぎりある身の力ためさん
 という古歌を口ずさみながら残雪の高野山への山道を登った。生活を切りつめるため、穆韶は無住となっていた庵に住んで、四年間の自炊生活をしながら大学での研究を続けた。研究の実績は多くの人々が認め、1905年(明治38)29歳の若さで高野山大学の教授に抜てきされた。
 それから50年余も大学の教壇に立ち、1940年(昭和15)戦争が激しくなるなかに、高野山大学学長に推せんされた。学長に就任した穆韶に大学創立以来はじめての難問が降りかかってきた。
 当時、政府は戦争遂行のために、会社、銀行、商店から学校まで統合して数を減し余った人手を武器生産の工場に廻していた。高野大学もその例にもれず文部省から東京の大正大学と合併することを命令された。

 

 戦争のためという命令に反対することは、容易なことでなく国賊扱いで牢に入れられるかもしれない危険なことであった。
 しかし、穆韶は大学の伝統を守り、真の宗教家を育てるためには1000年の真言宗の根本道場でなければならないと考えた。3年間にわたって十幾度もはるばる東京に上京して、橋本文部大臣に大学存続を訴え続けた。穆韶の必死の訴えと熱情に文部大臣も動かされて、大学合併案は撤回された。
 しかし、文部省は高野山大学だけの言い分を認めさせてはまずいと思ったのか、東京の大学がだめなら、京都の大学と合併せよと大谷大学・龍谷大学と合同するように命じたのであった。二つの大学は浄土真宗の大学で真言宗の高野山大学とはまったく宗派が違い、なぜこのような無茶なことを要求するのかわからなかった。
 度重なる難事に、学長としての穆韶の心労も並みたいていのものではなかった。しかし、最後までこの申し入れにも屈することなく、高野山大学の自主・独立を守り通した。
 「日頃、柔和なお人にして、この凛々たる勇気がどこから出てくるのかと思われるほど、烈しい勢いで説得に努められた。」
と同行した教授が、穆韶の追悼文に記した。
 真言宗の僧侶としての修行も、学間の秀れた研究者としての成果も高野山や宗門の人々がすべて認めるところであった。
 1953年(昭和28)、78歳の年「真言宗高野山管長」「大本山金剛峰寺座主」という真言宗最高峰の権威ある地位におされた。
 1953年5月26日、金山穆韶の管長、座主の就任式は盛大に行われ、全園から集まった千名の人々や高野山町あげてのお祝いを受けた。
 修行や学問研究に取り組む穆韶は、近寄りがたい厳しさと権威をもっていたが、普段の穆韶は人情味豊かで、人を咎めることなどない人であった。
 穆韶の生家(金山正家)には約40通の手紙が大切に保存されている。その中に、文珠寺村の武部神社の幟についてのやりとりが記されたものがある。

 「幟の依頼をうけたが、高野山はマイナス6、7度の寒さで幟のような大きな文字が書きづらい。しかし、春祭が3月なら大至急書いて送らねばならないから、電報で返事を下さい。」(昭和31年3月9日)

 と書き送った。老齢の穆韶にとって大きな幟の字は重労働で、しかも厳しい寒さがこたえていたのであろう。生家からどんな返事が届いたであろうか。
 その年の10月の手紙に、
「一筆啓上、御祭に立派な旗を樹てましたか。神様がお喜びでしたろうとおもいます。」 と書き送った。約束の期日を気にして電報での返事を頼み、ふるさとの丘の上の氏神にひらめく幟をまぶたに浮かべながら、神様に喜んでいただき、自分もうれしいという気持ちが、子供のようなすなおさで伝わってくるのである。

 

 中学校卒業後、しばらく胸を患い必ずしも丈夫でなかった穆韶は、病人や身体の弱い人に対する思いやりは人一倍に強かった。
 生家の人や親戚、縁者が病気と聞くと、薬や栄養剤をすぐに送った。また、健康維持のためのよい治療器や器具があると贈り、自分で使った効果も説明した。どの手紙を読んでも暖かい愛情にあふれ、末尾には必ず心をこめた
「皆様の幸せと健康を日々祈っています。」という文で終わっていた。
 その生涯は、厳しい難行と学問の研さんを通して、真言宗の開祖弘法大師の教えを理解し、自らの身につけようとした努力で費やされた。
 道元禅師は、
「どんな宗教も、その教えが真実のものであるか、否かは、決して単なる理論や説教によって決まるものでなく、全く唯これを証明する人によって決まる。」
と、言っているが、金山穆韶その人は真言宗のすべてを身につけた人であったということができるのでなかろうか。