1786年(天明6)〜1840年(天保11)旧大山町河内で生まれ信仰登山に生きた修行僧
1807年(文化4)、京都で仏門に入り、美濃・飛騨(岐阜県)等で布教活動を行いながら、笠ケ岳の登山道を復活して登る。その後、槍ケ岳開山を決心し、19年の長い年月をかけて、きびしい修行と諸国行脚をしながら、槍ケ岳開山という偉業を成しとげた。

 

 「日本アルプス」といえば、英人ウエストンが命名して、踏破したと思われている。信州の上高地には、彼を記念した額が岩にはめ込んである。しかし、槍ケ岳初登頂に成功したのは、ウエストンの登山より約60数年前に、郷土の先人「播隆」であった。

 

 播隆、最初の登山は笠ケ岳である。開山は円空で元禄年間(1688〜1704)といわれている。円空の登山後、およそ100年を経て南裔という僧も登っているが、その後登山が絶えていた。1823年(文政6)に笠ケ岳のふもとの村で修行していた播隆は、登山道がなく登山できないことを残念に思い、これを再興することを決心した。翌年、地元民の協力を得て、笠ケ岳の登山道を完成させた。また次の年には、石仏を一里ごとに設け、頂上には阿弥陀仏を安置して再興した。この笠ケ岳登山は、後に槍ケ岳開山の素地をつくった注目すべき出来事であった。
 頂上から蒲田川の谷をへだてて穂高連峯の荒々しい岩峰が目に入り、日本アルプスの王座といわれている槍ケ岳の天空を裂くようにそそり立つ三角の鋭鋒のとりこになっていた。

 

 1826年(文政9)8月のある日、松本市郊外の本郷村玄向寺を、瓢然と訪れた僧があった。これこそ槍ケ岳登山の熱烈な悲願を秘めた播隆の姿であった。
 玄向寺の紹介で、小倉村(上高地の入口)の中田又重郎というすぐれた案内人をさがすことができた。中田家は、付近一体の山から将軍家御用の鷹を取る役目をもった家柄であったから、山の地理にもくわしく、播隆の槍ケ岳登山に、いつも影のように同行したよき片腕であり、熱心な信者でもあった。二人は、今、槍ケ岳をめざして登ろうとしていた。「播隆さま、いよいよですね。」「天気もいいし、木こりの道をたどるとしようか。又重郎よ、くれぐれも身体に気をつけてくれよ。たよりにしているよ。」二人は途中までは、当時、建設中の飛騨新道(上高地と高山をつなぐ道)といわれる木こりの道を行った。だが、それを過ぎるとまったく人跡未踏の土地で、笹やぶや木の枝、倒木にさえぎられた。また氷のように冷たく、矢のように流れの速い谷川を渡らなければならなかった。しかし、槍ケ岳に登りたい一心で、そんなことは少しも苦にはならなかった。
「さあ、今夜はあの岩かげで夜露をさけて、野宿をしよう。」
「昨夜の松の木の下よりも、寒さはしのげるだろうよ。」
「岩の間から水も出ている。そば粉をかいて食べるとするか。」
「播隆さま、道を切り開いているときにハチにさされたのが、まだ痛みますよ。」
といいながらも、明日もがんばるぞという気持ちで深い眠りに落ちていった。 翌日の槍ケ岳の雪渓では、滑ってころびそうになる足を錫杖(僧のもっているつえ)にすがって登った。ようやくにしてたどり着いたのが、坊主岩小屋という洞くつである。ここを基地に、頂上へ登る道をさがした。槍の肩(頂上のすぐ下に広がる岩場)まで登ると、北に薬師岳・立山・剣岳、西には前に登ったことのある笠ケ岳、東には数々の苦しみを越えてきた山々や、はるか遠くに、紫にかすむ富士の霊峰が見えた。播隆は、この雄大荘厳な眺めに心を打たれて、清くけがれのないこの土地に仏像を安置する決心を固めた。 頂上までは、まだ7、80メートルの岩の峰があった。
「播隆さま、もう力を使い果たしてしまいました。」
「何を言っているのだ。弱音をはくな。」と、播隆はいってはみたが、これ以上登る元気はなかったので、危険をおかしてまで登ることをあきらめた。そして、岩の峰に登る道をさぐるだけにして、いったん下山した。

 

 第一回の登山で、頂上に登れる確信を得た播隆は、諸国から集めた浄財で仏像をこしらえて、2年後の1828年(文政11)に再び小倉村に現れた。再会を喜んだ中田家の人々や村人たちは、今度こそ大願が成就することを祈ってくれた。今度は、山のようすもわかっているので、第一回ほどの苦労はなかった。
「播隆さま、背中の仏さまのお力でしょうか。今度は、疲れないようですね。」
「きっとそうだ、ありがたいことだ。」
文政2年7月28日、二人は、最後の難関である岸壁にたどりついていた。
「さあ、あと一息だ。」といった播隆は、又重郎の顔を見てにっこりとした。又重郎もそれに答えて笑顔で、「播隆さま、もう少しですね。」といった。苦心のすえ、ついに頂上に達した。
 播隆の喜びと感激は、何にたとえようもない大きなものだった。晴れわたった大空のもとに、北アルプスの山々は、槍ケ岳にむかって打ちなびいているようであった。頂上の岩を集めて、ささやかな祠をつくって、その中に背負ってきた三体の仏像を安置した。
 大願成就をして下山した播隆の徳を慕って近村の人々は、信者となる者がますます多くなった。播隆が書き与えた六号の名号の軸がこの地方に数多く残っていることでも、うかがい知ることができる。

 

 

 二回目の登山で頂上を征服し仏像をまつってきたが、山頂への道のりがけわしく人々は簡単に登ることができなかった。
「せっかくの仏像だ。多くの人にお参りしてもらわなけれが意味がない。もっといい道をつけなければ。」というのが、播隆の口ぐせだった。
1834年(天保5)の四回目の登山のとき、又重郎のほかに、信者の猟師や飛騨の石工数人も参加して、道をひらいた。そして、槍岩に木の鍵をこしらえ綱をかけて、「善の綱」と名付けた。登山の安全と便利をはかるために、鉄の鎖をつけることを計画した。1836年(天保7)に、松本の大阪屋佐助という信者の世話で、「槍嶽縁起」(槍ケ岳開山の由来を書いたお札)を諸国に配って募金した。「ほんの少しだけど、鎖のために使ってください。」「わたしも協力しましょう。」人々は、播隆の徳を慕って、はさみ・ほう丁・お金など思い思いの寄付をしたのでたちまち鎖はできあがった。槍ケ岳にかける鎖ということで、人々は労を惜しまずに宿場から宿場へと運び、半年もしないうちに鎖が小倉村に届いた。ところが、ここで思いがけない問題が起こった。天保年間は、全国的に凶作が続き、ことに信州や飛騨の地方では大ききんが続いた。これは、槍ケ岳に登って念仏祈とうをしている怪僧のためだといううわさが広がっていった。この結果、松本藩は、槍ケ岳に鎖をかけることを禁止して鎖も取り上げてしまった。熱心な信者は、播隆を弁護して、許可を求めたが、全く受け入れられなかった。それから4年たった1840年(天保11)、信者の懇願と豊作により、世の中が平静になったので、ようやく播隆の手に鎖が戻った。鎖は、早速大勢の信者の協力で、槍ケ岳のけわしい岩壁に取り付けられたのである。槍ケ岳開山の志をたててから19年、また初登山してから15年目に、播隆のすべての願いが果たされた。

 


 播隆のふるさとは、旧大山町河内の山村であったが、今は廃村になっている。播隆の家は、信心のあつい家柄であった。彼の59年間の生涯は、きびしい修行と諸国行脚の連続であった。彼は僧としては名もない修行僧であったが、その信念と生き方は、どんな名僧にも劣らないものであった。いつも自らを苦しみと困難の中に投げ込んで修行を重ねた。 播隆が槍ケ岳を開いたのは、今のアルピニストが登山するのとは違って、念仏三昧(念仏を熱心に唱えて仏の道を知ること)のために、深くてけわしい山で修行するための登山、いわゆる信仰登山によるものであった。彼の信仰に生きるひたむきな姿は、人々に深い尊敬の気持ちを高め、行くさきざきで請われて仏の道を説いた。彼が教化した足跡は、飛騨・美濃(岐阜県)、甲斐(山梨県)、信州(長野県)三河・尾張(愛知県)、越前・若狭(福井県)で、この土地をたずねると、今だに播隆の徳が念仏講に受けつがれ伝えられている。彼は、26才にふるさとを出てから、一度も家へは帰らなかった。しかし、今も残っている数通の手紙は、父母や兄弟、村人に深い愛情を寄せたものが多い。いつどこにあっても、父母への孝養をおこたらず、ふるさとは心から離れていなかった。槍ケ岳開山のことも、感激にふるえながら書き送っている。また、仏の道を信心する大切さを熱心に説いている。播隆は、宿願の事業をなしとげた安堵から、1840年(天保11)10月21日、美濃太田(岐阜県美濃加茂市)の信者の家で、大勢の弟子や信者にみとられながらなくなうた。それは鎖をかけてからわずか3か月後であった。

 

 1834年(天保5)、第4回の槍ヶ岳登山を成しとげ、善の綱と名づけた綱を槍岩に取付けて、登山の安全をはかった。
 この縁起は、1836年(天保7)、信者が木版刷にして各地に配布し、鉄の鎖を造ることを呼びかけた。鉄鎖はたちまち出来上がったが、すぐに掛けることができず1840年(天保11)ようやく槍岩に掛かった。